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【ネイチャーゲーム×リトリート①】 私だけのとっておきの場所を見つけよう。「わたしの岩」
【ネイチャーゲーム×リトリート②】〈風いくつ〉――自然の"リズム"を取り戻す時間
【ネイチャーゲーム×リトリート③】「気になるヨガから木になるヨガ」〈木のシルエット〉応用編
【ネイチャーゲーム×リトリート④】背景だった自然が、語り始める。 〈サウンドマップ〉と、自然のリズムが合ってくる時間
前回④の〈サウンドマップ〉では、自然に耳を澄ませながら、街のリズムから自然のリズムへと少しずつ自分を戻していく感覚について書きました。
自然と自分のリズムが合ってくる。
複数で〈サウンドマップ〉をしていると、さすがに人の話し声や動く気配もあり、動物や昆虫たちも人間の存在を察知して、私達とは一定の距離を空けています。
しかし、一人のときは違います。
私はよく、リトリートで一人、自然の中でたそがれるということをします。
何か特別なことをするわけではありません。
森の中で一人、ただぼんやりと過ごす。
木々を眺めたり、風を感じたり、遠くから聞こえてくる音に耳を傾けたりしながら、ただそこにいる。
そうして長い時間、自然の中に身を置いていると、ときどき不思議なことが起こります。
あるとき、遠くでセミが鳴いていました。
その声を聞きながら、いつものように一人で自然とリズムを合わせていると突然、
「ミーン!ミンミンミーン」
今度は、至近距離から鳴き声が聞こえてきます!
さっきまで遠くから聞こえていたはずのセミの声が、すぐそばから聞こえてくる。
もちろん、遠くで鳴いていたセミがやってきたのか、近くにいた別のセミが鳴き始めたのかはわかりません。
その距離、およそ1メートル、ありえないくらい近くでセミが鳴いていました。
また別のときには、トンボが飛んできて、私の麦わら帽子のつばに止まったこともあります。
こちらがじっとしていると、トンボもそのまま。
まるで木の枝にでも止まるように、私の帽子で羽を休めています。
こんなことが起こると、私はときどき不思議なことを考えます。
自然の中で長い時間じっとしているうちに、私は自然の中に溶け込み、彼らから見れば、どれが木で、どれが石で、どれが人間なのか、わからなくなっているのではないか、と。
もちろん、本当にそうなのかはわかりません。
でも、そう考えるとちょっと面白い。
ネイチャーゲームには、〈カモフラージュ〉というアクティビティがあります。
自然の中に、そこには本来ない“人工物”をいくつか紛れ込ませ、それを注意深く探していくゲームです。
周囲の色や形に溶け込んだものは、そこにあるのになかなか見つかりません。 見えているのに、見つからない。
そんな体験を通して、自然界の生きものたちが持つ擬態や保護色にも目を向けていきます。
〈カモフラージュ〉では、 私が、自然の中に隠された人工物を探します。
「自然の中で、私が探す」
では、これをリトリートの視点から眺めてみたらどうでしょう。
「自然の中に、私が隠れる」笑
主語は同じ「私」なのに、自然との関係がまるで反対になります。
もちろん、木の陰に身を潜めるという意味ではありません。
ただ、一人で自然の中に身を置く。 何かを探そうとせず、何かをしようともせず、ただそこにいる。
すると、自然と私のリズムが合ってくる。
そして、更にその次の段階があって、その感覚がさらに深まっていくと、私が自然の中に溶け込んでいきます。
木があり、石があり、セミがいて、トンボがいて、私もいる。
けれど、どれが木で、どれが石で、どれが人間なのか。 その境界線が、少しずつ曖昧になっていきます。
いつしか、自然の中に、私が隠れている。 私自身がカモフラージュしているのです。
至近距離で鳴き始めるセミも、麦わら帽子に止まるトンボも、 もしかしたら彼らにとって、そのときの私は「人間」という際立った存在ではなく、木や石と同じように、気配を消した、その場所にある風景の一部になっていたのかもしれません。
前回の記事では、自然に耳を澄ませることで、自分の感覚をひらき、自然のリズムへと戻っていく時間について書きました。
そして、自然とリズムが合うことから、自然と溶け合うことへ、 リトリートの実践を続けると、自然との関係は更に深まっていきます。
これが、私が自然の中でときどき体験する、 「逆カモフラージュな時間」なのです。

(2026.09.03記事作成)
千葉県在住のネイチャーセラピスト
鹿野山自然学校校長
リトリートのプロデューサーとして、全国のリトリート施設の開発に携わる。2024年12月に出版したリトリートのガイド本「リトリート休養術」はAmazon kindleで2部門でベストセラー1位。(2025.4.9〜4.10)



